学力の差がつくところ |
学力差は、どうしてつくか
ある科目の勉強を複数の人が、同じようにスタートしたとします。同じスタートラインなのに、しばらくすると学力に差ができるのですが、これはどうしてなのでしょうか。
まず、勉強時間です、勉強していないと、成績が悪いのは当然です。勉強不足の人は、勉強方法を論じる以前の問題です。次に、全員勉強時間が同じとしても、学力に違いが出てきます。頭がいいとかの理由もあるのですが、ここでは、それを言ったらおしまいなので、さらに分析してみます。
まずは、本を読む速度が違います。新日本速読協会の資料によると、世間で一流大学に入る人の読書速度は、分速800〜1200文字で、一流でない大学に入る人は分速400〜600文字程度の読書速度だそうです。この数字は、あまり正確ではありませんが、だいたい2倍程度は違うようです。 これでは、同じ時間勉強しても、入ってくる情報に2倍の差がつくのです。勉強方法以前に、単なる「本を読む」という行為だけで違いが出てきます。
読書速度が違うということは理解力が違うことを意味します。単に文字を目で追うだけなら、誰でも速く見ることはできますが、おそらく意味がつかめないでしょう。ちゃんと理解して読んでいて差がつくのは、文章を理解する速度が違うからなのです。 また、記憶力が違います。読んで理解するということは直前に書いていることを覚えているから続きの話が見えてくるわけです。 読書速度だけで、これほどの違いがあるわけですね。
すでに書いてしまいましたが、読書速度以外に、理解力、記憶力が違うわけですね。
こうして書いてゆくと、「やっぱり頭の出来が違うんだ。」と思ってしまいそうですがそうでもないことがあります。
習慣が原因 上述したように、理解力、記憶力に差がでるのは、頭のよさによるみたいですが、これは、単に頭がいい悪いではなく、習慣や考え方に問題があるようなのです。もちろん、頭のいい人はいますが、頭が悪いから理解力、記憶力がないというわけではないのです。
例えば、本を読むときの音読の習慣です。子供の時に、親や教師から音読を強くしつけられた人は、音読して本を読み、音読して覚える習慣がつきます。 小学校高学年で黙読に移行できた人はいいのですが、移行できない人は、本を読むのが遅くなります。
それというのは、黙読しても声を出さないというだけで心の中では音読しているのです。黙読は視覚から情報を得て理解するのですが、音読は声を出して音として情報を得て理解するのです。 音読の習慣のある人は声をださずに本を見ても頭の中で音読しているので、実際に音読するよりは速く読めますが、基本的には音読ですので、声に出しているのと同じような速度で読むことになり読書速度が落ちます。
このような人達は黙読するよりは、実際に音読してしまう方がよく理解できるでしょう。音声から理解するという経路が頭の中でできているからです。 さらに、音読で声を出して物事を覚えていたために、音読から黙読に変わったとたん記憶できる量も減ったと思います。そういう人でも声を出して何回も言うと覚えられるのです。 こういう人は、音声情報から頭にインプットするという習慣が身に付いているわけですが、ひどい人になると、文章を声を出して読まないと理解できないという人もいます。
多くの人は視覚から文字認識して理解する経路ができているのですが、その経路作りに失敗しているのです。さらに長年習慣化していて、多少の矯正訓練では矯正できません。右脳速読の教室レッスンでも速読が習得できなかったり、習得できたとしても、しばらくすると長年の習慣が顔をだして、しばらくすると元に戻ったりします。 矯正方法は別に書く事としますが、とりあえず音声によって情報を習得しやすいので、本を読むよりは講義のテープをとっておき、それを耳ら聴くといいでしょう。音読の習慣のある人は、わりあい小学校低学年から真面目に勉強した人が多く、授業を聞くとよく理解できていたと思われます。 教科書を読まなくてはならないという既成概念を捨てて、授業を録音して、板書を写して、授業を再現すると効果的に勉強できるはずです。 教科書を読みたければ、一度音読して、テープに録音して、それを聞くという手もあります。 これは、サブノートを作るくらい時間がかかるのですが、ある程度慣れてくると、もう聴く必要が無いところは飛ばしながら聴いたり、テープの2倍速再生などで、早まわしに聴いてもいいわけです。
頭は使えば使うほどよくなる テレビのバラエティー番組でみたことのある人もいるでしょうが、アルツハイマーなどの病的原因ではなくして30歳代からボケてしまう人もいます。理由は頭を使っていないからです。 他方定年を過ぎた年齢の人が大学に再入学したり、勉強に頑張って成果を出している人もいます。理由は頭を使っているからです。
私達は子供の時から頭を使い、頭を使うとそれに適するように脳内に脳細胞のネットワークが作られます。そして、その機能は使えば使うほどネットワークは発達し、使わなければ使わないほどネットワークは死んでしまいます。 記憶力のいい人は、記憶する習慣があるからです。お寿司屋さんはカウンターでたくさんのお客さんの注文を受けて、よく覚えています。化粧品店の店員さんもお客さんの情報をよく覚えています。これは普段から覚える習慣があるからです。 理解力のある人は普段から思考力を鍛えていますし、ふだん難しい本を理解している人は、どんどん難しいことが理解できるようになります。 まさに、頭は使えば使うほどよくなるわけです。
誤解していることで損している
こんなコンテンツ書いて私は学生時代成績がよかったのかと思う人もいるかもしれませんが、実際は成績は小学校以来ずっと下のほうの人でした。
恥ずかしい話ですが、私の記事は読み方によっては私の失敗談そのものなのです。「数学は考える科目だ」ということを真に受けてしまったのは私です。
それで数学は教科書の解説を読んだ後、公式を自分で導き出す練習をして、問題演習という順番に勉強しました。
しかし、それは正しい方法でしたが、バカみたいに時間がかかりました。
要領のいい受験生は、先に問題の答えを見ながら解いて解き方を理解し、暗記していたのです。暗記というのは誤解を生む表現ですが、繰り返し解くことによって問題の解き方を覚えているわけです。
私は最初の段階で自分で解こうとして悪戦苦闘しましたが、最初から答えを見ながら解いた人はその時間を節約できたわけです。途中の理論でわからないことを理解する作業の時間はどちらの方法を取っても同じです。
最初は答えを見ながら解いて、自力で解けるまで途中で何回も答えを見てもいいという方法の方が速く問題を解けるようになるのです。
最初から自力で解いた私は疲れてしまい、繰り返しという気力がなくなってきました。
これでは勉強しているのに成績が上がらないわけですね。
思い込みに根拠はあるのか?
人は何かするときには自分なりのルールで動いています。自分にとってそうするのが正しいと思っていることで、それは優秀な理論から得たものであったり、自分の経験則であったりします。
それは、「こだわり」とか「ポリシー」といわれるもので、過去の経験や知識を生かすという意味ではいいことなのです。しかし、こと方法論では障害になることがあります。
自分なりの方法論を持っていて、それを変えないことはあれこれとテキストを変えたり勉強方法を変えたり(決められない?)とふらふらしているよりいいのですが。間違っていることをかたくなに変えないことはかなりの障害になります。
頑固なのはいいのですが、誰から見ても非効率という方法をとり続けるのは困ったことです。もちろん、結果に対しての責任は自分にふりかかるのでいいのですが。
英語は積み重ねの科目で基礎が大切と言われますが、決して基礎というものは最初からやるということではありませんし、どこから始めても基礎部分は身につきます。
文法が大切といわれますが、文法書で理論を学んでも英語は読めません。むしろ英文をたくさん読んで暗記して身についてくるものだからです。先に実際の英文があって、後からその英文の構造についての理論がついてくるのです。
最初から順番にする必要もないし、サブノートを作る必要もないのです。あるとしたら合理的理由と目的が見つからなくてはなりません。
勉強をしているのに成績が悪いというときは、どこか不合理な問題があるからです。ノウハウ本を読む前に一度自分の方法を洗いなおしてみませんか?
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