If I Believe

この曲は同名のアルバムのTopに収録されている曲で
ライブではMai−K&EXPERIENCE Special Liveでしか歌われた事はない。
しかし、この曲ははライブ向きの曲ではないかと思う。
倉木の歌唱が尻尾の先まで堪能できるし、
さらに倉木の力強く伸びのある声を発揮できる作品だからだ。

この曲は倉木が2002年秋より敢行した
FAIRY TALE tourでの体験から生まれたと言われる。

同ツアーで自分の限界に挑戦し続けた倉木がみつけたものは、

「苦しい時、悲しい時、つらいとき、
それを抜け出したときに新しい自分を発見する。」

というもので、その与えられた苦しさを
抜け出せることができるという自分を信じることが大切だという。

もっとも、このことは曲の内容とは直接関係ない。
ただ、自分を信じることは前提とはなると思う。

この曲はワンコーラスとツーコーラスの間に2回サビがあるという変則的構成で
90年代のアメリカンポップスを意識した曲である。

この曲は倉木のデビュー前からデモテープは存在していて同名のアルバムで、
ようやく当選となった曲だが、メロディー自体も斬新な感じがする。


さて、この曲は歌詞が聴き取りやすいのであるが、
理解するには時間がかかった。

私が最初に引っかかったのは「If I Believe」という部分と、
その次に来る
「君の瞳の中のスクリーンにちゃんと僕の姿が映しだせるように。」
という部分だ。

If I Believeの目的語は何になるのであろうか?
通常の日本語の用例だと、
「君の瞳の中のスクリーンにちゃんと僕の姿が映しだせるように。」
なるのは、相手が信じているときであり、自分が信じている時ではない。

この曲を聴いて最初に感じた不可解さがこの部分だ。
そこで考えたのが「瞳」という単語が
キーワードとなっているのではないかということだ。

倉木の曲には「瞳」という単語がよく出てくる。
しかも、瞳は自分のみのではなく、相手のものだ。

「冷たい海」では瞳は最後の英語詞の部分と
最初の「あなたの目」である。
「風のららら」でも「ひとみ信じて」とある。

倉木は相手の見えているものを常に意識するように思える。
相手の立場に立つというだけでなく
、今相手の目は何を映し出しているか、相手そのものになって考えている。

これは、思いやりのある人なら特に特別なことではないが、
倉木の場合は歌詞に特徴的であるというほどに頻出している。

しかし、そのことは自分の想像であって
決して相手の瞳に映ることととイコールでないことは、
ひとつのジレンマでもある。

ところで、信じることについて聖書では、
「誰でもこの山に、動き出して海の中にはいれと言い、
その言ったことは必ず成ると、心に信じるなら、
そのとおりに成るであろう。」(マルコ伝11章)
とある。

さらに、具体的にいうと、仏教の般若心経でも
「存在すると思うものでも実は存在せず、存在しないと思うものでも実は存在する。」
と記されている。

わかりやすく言うと、この世の中で存在すると確信していると
そのように目に映るのであり、存在しないものでも自ら作り出してしまうのである。
逆に信じていなければ、存在するものでも目に映らないわけである。

人は何もないところからでも、自分の頭の中で心配事は作ることができる。
逆に心配だと思っていたことでも、実際は自分の心が作出したものにすぎない。

つまりは、自分を信じ相手を信じるということ。
それがもっとも大切であると倉木は言うのであろうか。

この曲に関して倉木は
「時にはお互いを思いやって、信じて見つめあうこと」も必要で大切だという思いと、
「相手を理解して自分の思いを告げれば信じることができる。」
ようになるのではないかと言う思いを書いたと述べている。


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