いい曲とは

客観説

よく「いい曲」「駄曲」ということが言われるが、
音楽に客観的基準があるわけではない。

さらに、歌詞でも曲でもなく歌だというと
ますます客観的基準は見えなくなる。

ただ、判定基準をメロディーや歌詞に絞ったとしても、
やはり判定者の主観であって客観的基準はないであろう。

では、その人が名曲と思えば、それは名曲なのであろうか。

確かに、音楽は主観的な感性であり、
誰がどんな曲を名曲と評してもかまわない。

しかし、それでは価値の高い名曲というものが多数存在し、
逆に、どの曲も価値は同じということになり、妥当ではない。

たとえば、私が自作曲で単純な作曲をして、
誰が聴いても悪い評価をしても、
自分で名曲と思ったらそれで名曲であるというのには疑問があるし、
それは、玉も石も同価値と見るもので当でない。

ところで、これが美術品だったらどうであろうか。

美術品の場合でも、美術品にいくらの価値を見出すかは
個々の個人の主観によって決まるであろう。

しかし、美術品であれば、画商やコレクターによって評価に差があるものの
誰から見ても妥当な相場というものは存在するのである。

やはり音楽も個人の主観的な評価というものとは別に
客観的な価値判断は存在すると思うのである。

個人の感性とはいうものの、
それはその個人の感性や経験というものであるが
それとは別の客観的評価はありえよう。


価値判断の基準

音楽の場合は、美術品と違い、数字で現れる相場というものがない。
しかし、CDの売り上げというものはある。

例えば1枚1000円のCDでも、それを買う立場としては、
1000円を払っても買いたいという動機が起こらなくてはいけない。

1000円を失うのは嫌だという反対動機を乗り越えなくてはならないし、
少なくとも、1000円よりもそのCDに値打ちがないと価値を見つけない限り
CDというものは買わないのである。

では、CDの売り上げが曲の客観的価値かというと
そうでもない。

というのは、現在では曲を配信する手段として
レンタルやネット配信もあり、
CDというのは曲を配信する一手段でしかない。

音楽が商品の場合、本体は曲であり
CDという物体は単なる入れ物にすぎないのである。

それに、曲質以外にもプロモーションのやり方、
曲とは違う個人の人気、そのときの話題性ということもあり、
CDの売り上げが曲質と比例するとは限らない。

しかし、CDの売り上げは無視するわけにはいかないだろう。
クラシックでも永年価値を保ってきた音楽は
その曲の価値を認める人の存在が不可欠であるからだ。

やはり時を越えて支持をする人が多数いてこそ
その曲の価値が認められるのである。


他方、聴き手の音楽レベルという問題もある。

美術品などはプロの目によって、およその値段が見出されるが
素人では、値段を判断できないことが普通である。
少なくとも、美術品に精通した者でないと判断できないものであろう。

音楽でも、プロの視点と素人では違うし
クラシック音楽のように、一部の精通した人のみが
その良さがわかるように
一般の素人では価値が判断できないものもある。

その意味では、売り上げの多さや
支持する人の数だけでは曲質は判断できないことになる。

さらに、商業音楽の場合
客観的な判断ではなく、主に宣伝のために見解を述べる論者もいて、
プロの意見というものでも安易に信用するわけにはいかない。

結局、美術品のように、あるレベルの者の客観的判断と、
支持する人の数を判断することになろう。

特に、その曲に関して、
同じ志向を持ち、同質性のある者の集団を想定すると、
やはり支持者の数というものは参考にせざるおえないだろう。

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