いい曲とは(歌詞編) |
どうして我が国では歌詞が重視されるのか
他のところで書いたことだが
歌は音楽であって、文学ではないことは前置きしておく。
もちろん、音楽性を重視して、
数ある曲のうちには、作者自体が
「歌詞なんてどうでもいい。」と公言しているものもある。
歌詞は詩であり、メロディーに沿った韻を踏んだり 聴き手が感動すればそれでいいこともある。
しかし、歌には歌詞がある以上、
歌詞を重視する立場はあっていいはずである。 今回は歌詞に絞って書いてみる。
別の記事で書いたことだが、
我が国では、演歌や、それ以前の時代では歌詞が重視され、、
昔のフォークソング全盛期でも時代背景から 思想とかメッセージが重視され、
愛のみを歌うのは軟弱だといわれた時期があると書いたことがある。
その当時は、戦争から立ち上がり街が復興して わが国も高度成長期に入っていた時代だ。
当時は、今のように経済が安定しているのとは違い
まずは、生活の基盤や社会の基礎を作り出していこうという時代であった。
もちろん、当時の人は生活基盤を作り豊かな社会を目指していたので
それなりに目標もはっきりしていたし、価値観で悩むほどの時間もなかった。
ただ、物質的経済的には目標は持てたものの
豊かになった社会をどうするのかという方向性や
精神的欲求は若者を中心に少なからずなからず存在した。
また、経済至上主義ではあるが、社会の不満を吸収してしまうほどには
経済は満たされていなかった。
そこで日本のあり方をめぐり学生運動なども盛んになり 社会の指針、生き方の指針を与えるような歌が求められた。
異論はあるだろうが、フォークソングは 反体制のメッセージを伝えるという媒体として栄えたという側面もある。
そういう時代背景で全盛期を迎えた
フォークソングにはメッセージ性の強い歌詞が求められた。
それは、当時の人々が未来や生き方の指針を求めていたからであろう。 そのメッセージとは政治的なものから、一般的価値観の提示もあった。 ところが、やがてメッセージ性は求められなくなる。
それは必ずしもそういう曲が飽きられたということではないけれど、 たくさんの歌手がいろいろと思想や価値観を提示しても
それはすでに一般では珍しいものではなくなった。
聴いても特に新しい価値や思想を提示するものではなくなってきたのだ。
それに、学生運動なども下火になり、社会が安定すると、
歌にメッセージ性や政治思想は必要なくなり、
新しい生き方を真剣に模索するというような時代背景でもなくなった。
また、それらの歌詞が新しい価値観を提示するというものでもなくなった。
それゆえ、思想的なメッセージという曲は姿を消してゆき やがて愛を語る曲が主流となってくる。
愛を歌う歌詞
フォークソング全盛期が過ぎると
愛を歌う曲が主流となる。
しかし、ここでもやがて、
思想的メッセージが重視された時と同じ問題にぶち当たることになる。
最初は聴衆の体験と歌詞とが重なることで感動は得られた。
しかし、それでは歌詞そのものの感動ではなく
あくまで聴衆が「思い出しただけ」のこととなのである。
ここで、リアリティーが求められ写実主義という部類の曲もありえる。
確かに、写実主義は実体験をもとに
聴衆の経験としても現実感がある曲が提供され、
リアリティーのあるものは聴衆にも鋭く深く訴えるであろう。
しかし、それは単に聴衆が自分の経験と重ね合わせただけであり、
その感動は聴衆の記憶からくるものであり、
曲自体から来る感動なのかは疑問があるのである。
もっとも、、男女交際の多様化、社会の変化によって、
より多くの刺激が求められてゆくのであり、
写実主義は我が国では、あまり見られない。
次に、恋愛に対して「もっと〜してほしい。」「もしも、〜なら。」
というように恋愛のあり方について提案してみる曲もある。
これは、昔の思想メッセージを込める歌と共通する一面がある。
恋愛に対しての価値観や問題提起が新鮮なものや
みんなから共感を受けるものもあるが、 あまりに一般にとって常識の範囲内なら、
共感しても特に面白いとは思われないであろう。
また、一般から離れたものでも支持は少なくなってこよう。
だいたいの曲は、ドラマのストーリーを作り出し
「かわいそうな」ドラマを作ったりして感動を呼ぶのである。
このようにすると、いろいろなバリエーションで
いろいろなテーマを提示できるのである。
写実主義にしても、ドラマのようにストーリーを作り出して感動を呼ぶにしても テーマを投げかけるにしても
基本的に聴衆の考えや体験を重ね合わせるものであるという域を出ないなら、 次から次へと聴衆にとって珍しいものを提示しないと 飽きられてくると思う。
少なくとも、聴衆との共感というものを基礎にする限りは 時代と共に飽きられてくるし、 創作物としては、あまりにも創造性がないのではないだろうか。
価値の創造
イルカというのはフォークソング全盛期の後期にデビューした人だ。 あの当時は好きだったのだけれど、 あの当時好きだった人の歌は今はほとんど聴かないし 実は、私としては過去に捨ててしまった価値観でしかない。
理由としては、あのとき新鮮に思えたメッセージに対して
今は当然なものになってしまったか、明確に否定してしまったかである。
1970年代というのは私も思春期で自分の考えや方向性を探す時だったので そういう曲はかなり深く私にメッセージを伝え考えさせられた。
しかし、今では自分にも確立した考えや価値観があり そういうものは古く陳腐なものになってしまった。 そのメッセージが思想であれ恋愛観であれ、それは同じことだった。
これを一般化して考えると 歌詞に思想や恋愛観を込めて歌うと
そのテーマに直面している人にとっては共感し感動し考えさせられる。
しかし、そのテーマを克服した人や、過去のものになってしまった人にとっては 古くて価値の無いものになってしまう。 せいぜい若い頃の思い出というだけになるかもしれない。
そうであるなら、歌詞に思想や恋愛観を込めても そもそも普遍的に受け入れられることは不可能とも思えるし 受け入れられても時間の経過と共に朽ちていくものかもしれない。 まことに、普遍的というものは実在しないのではないかと思う。
しかし他方で、時代を超えて 何回聴いても決して飽きることの無い曲が存在することも よく知られているところなのだ。
ところで、何回聴いても飽きられない曲とはどういうものだろうか。 それは普遍的価値を持つものということになるが、
どんな曲でも時間の経過と共に朽ちてゆくことは先述した。
ただ、朽ちてゆく曲と言うのは 過去の経験に思いを重ねるだけの曲や 一時期、ある価値判断に直面した人に対してのみ メッセージを与えるものではないだろうか。
ドラマ性のあるものも、写実的なものも 結局、新しい価値というものを創作してはいなくて 曲そのもので感動するのではなく すでに聴衆の共通経験を原因として共感しているだけなのだ。
たしかに、このような共感というのは ほとんどの曲を理解するのには重要な要素であろう。 しかし、それでは作品を作ったことにはなるが 価値を創造したことにはならない。
多くの芸術作品が歴史を超えて伝えられるように 新しい価値を創造し、その価値が普遍的価値を持つときは その深遠な芸術性はなかなか朽ちてゆかないし 何回聴いても飽きない普遍性をもつようになる。
結局、一時期の政治的テーマを込めたメッセージも その場限りの価値判断であるときは その問題がなくなると誰も意識しなくなる。 恋愛観でさえ一時のファッションである場合は 一時代の過去の思い出となってしまうだろう。
いい曲とは、その曲自体が価値であり
作品が聴衆の共感を必要としないものなのだ。
共感というものを基礎とする限りは
一部の共感を得る者達の間で広まるだけだである。
これに対して、新しい価値を提示する曲は
無限に支持を広げる可能性をもつものである。
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