曲か歌詞か
 
私は1人暮らしであるし、1人で行動することが多い。
食事も1人ですることが多いが、
1人だと食事時間に食堂に入ることは躊躇される。
店としては、相席させるにしても
やはり1人客というのは効率が悪いので気を使ってしまうからだ。

あるとき、ガラガラにすいている店に行った
手打ちうどんの店だったが
客が誰もいないので味は期待していなかった。

出されたうどんを食べてみて、
声はかけなかったが、思わず店の主人の方を見てしまった。
麺は大阪でもトップクラスと言っても過言ではないものだったからだ。

でも、出汁の方は大阪では最低レベルだろう。

既製品ではありえない麺なので
店主本人は、かなり修行して自信ある麺を打っていると思う。

もしかしたら「こんなにいい麺なのに何故お客が来ないのか。」
と思っているかもしれない。

飲食店では、よく不景気とか人通りということを言う人がいるが、
そこは駅前で人通りは多いだろう。原因は味がまずい以外にないのだ。
いくら麺が一流でもそれだけでは料理ではない。

ところで、これは歌にも言えることなのだ。
歌には曲と歌詞があり、どちらも大切な要素なのだ。

我が国の音楽の歴史を見ると
演歌とか昔の歌謡曲といわれるものは別にして、

現在のJポップと言われるものは
吉田拓郎、井上陽水などのフォークソングと
キャロルやダウンタウンブギウギバンドなどのロックという
二つの流れが統合されたものと言える。

フォークの側は歌詞を重視し、ロックのほうはサウンドを重視する。
曲と言わずサウンドと書いたのは
メロディーというのは少し違うであろうし、
サウンドと言った方がしっくりくるからだ。
ただ、ロック系かフォーク系かというのが明確でない歌手もいる。

フォーク系の歌手の中では
歌詞が明確でないロック系の歌手を認めず
「歌詞が明確に聴き取れないのは歌ではない。」
という見解を述べた人もいたようだ。

ときどき歌詞を重視する人は、次のようなことを言うのである。

サザンオールスターズとか倉木麻衣は
歌っている歌詞が聴き取りにくい
それでも音楽と言えるのか?

これは歌詞を重視する演歌やフォークの立場であり
ひとつの見識であろう。

わが国では昔の演歌全盛期の時代や
フォークソング全盛期から歌詞が重視され、

特にフォークソングは、メッセージ性の強いものでなければならない
という価値観があった。

歌詞をもって強く語りかけることが重要視された。
当時の学生運動など、社会的な背景もあり、
愛のみを歌う曲は軟弱なものとして迫害された時代でもあった。

その後、歌に思想やメッセージを込めなくていい時代が来たが、
しかし、歌詞重視ということは変化していない。

確かに、歌に歌詞がある以上、歌詞を重視する価値観は正当なものであろう。

しかし、それでは歌詞のみが歌の核心部分ということであり
歌が音楽の一分野であることを見逃していると思うし
それでは音楽でなく文学であろう。

加えて言うなら、歌詞の意味がわからなくても伝わるものがある。

例えば、オペラなどクラシックでフランス語やドイツ語で歌われるとき
その聴衆は、必ずしも意味を全部理解しているわけではないだろう。

ビートルズなど洋楽のファンでも一般的日本人のヒアリング能力からして
何回も聴いたり歌詞カードを見ないと
歌詞の意味は、わからなかった人が多いのではないかと思う。

それ以前に、何回も聴くということをする自体、最初に意味がわからなくても
その曲の価値を認めていることになる。

そのことは、メロディーやリズムに彼らは魅かれたかというと、
それだけではないと思う。

確かにメロディーだけでも人は感動するし
いろいろなものを表現することができるのである。

音楽にはクラシックという分野があり、歌詞があるものとないものがある。
交響曲とかは、歌詞がないものだがそれでも曲だけで感動したりする。
もちろん、それがロックサウンドでも同じことである。

しかし、彼らはメロディー以上のものを感じたのではあるまいか。

例えば、正確な旋律を演奏するものがいたとしても
それほどに感動するとは限らないだろうし、
演者がコンピューターであるということを想定すると、それは明らかだろう。

つまりは、歌詞の意味ではなく、
歌い手の訴えたいものは心に伝わっているということではないだろうか。

歌詞と曲、どちらか片方のみをピックアップして論じるのは
妥当ではない。

歌詞でも曲でもなく歌なのである。


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