倉木麻衣の魅力
倉木麻衣は、デビューしてまもなく売れに売れた。音楽の論評としては、倉木麻衣の歌の評価は高くなく、それは容姿が原因だと言われたりしたが、いくらなんでも容姿だけでミリオンセラーになることは考えられない。
さらに中高年に人気があると報道されたが、それも違う。中高年では、ある程度の音楽を聞いていなくてもくだらないものは聴くことができない。聴いてはいられない。
ところがその中高年でもファンがいるということは、中高年でも聴くに耐えるということだ。単に若くて容姿のいい歌手というだけではないことがわかる。
最強のファン
いうまでもないが、デビュー直後から歌唱力について疑問点が出されたり「倉木は宇多田のパクリ」という誹謗中傷などが現れ、現在もその当時の記事が残っているサイトがある。特に音楽の知識もなく、宇多田や倉木の歌をあまり聴いたことのない一般の間では信じ込まれていたりする。
無論これは倉木のデビュー曲のPVの雰囲気のことを言われているのであり、曲がパクリというものでもないし、歌い方がパクリというのであれば、R&Bというものはそんなに珍しくもないのだが、それは演歌歌手全部が相互にパクリだというに等しい言いがかりである。こういうのは、マスコミの情報というものの危うさともいえる。
しかし、これにより多くのファンがファンであることから脱落してしまった。さらに、自分の耳を確信し、自分の考えで判断できる者だけが倉木のファンとして存在できることになった。倉木のファンの質がいいといわれるゆえんである。ただ、倉木ファンはどこでも少数派であり、特に中高年ファンは隠れキリシタンのような生活を強いられることになる。
それにしても、倉木のファンは洋楽を聴き込んだり、雑音に惑わされず自信をもって音の判断ができる最強のファンであるといえる。
倉木がいわれのないパッシングを浴びたことは不幸であるが、最強のファンを手に入れたことは幸福なことである。しかし、それゆえにファンからの要求は厳しくなり、常にいいものを要求されてしまうということになるし、質の悪い曲を作ると離れてしまうであろう厳しいファンでもある。
しかし、こうした環境は倉木麻衣の実力が伸びる要因のひとつである。
倉木麻衣は歌が下手?
倉木麻衣の歌について、批判があるとしたら、声量がないという点と、歌詞が聞き取りにくいという点であろう。
声量については、どうしてそのような批判がでるのか疑問である。音楽の種類としては、細かい表現や静かに歌うということはありえるし、オペラや演歌のように大きく透りの良い声を出す事が技術の基本と考えるのはいかにも一方的価値観の押し付けとしか思えない。
ただ、声楽上の技術として、本当に正しい腹式呼吸による発声か正直疑問である。技術的にはそのような技術を持ってもいいが、歌う曲しだいであろう。
「倉木には声量がない。」という批判を聞くことがあるが、これは先述のとおり言いがかりであるし、ライブでは力強く延びのある豊かな声を披露している。しかも、曲の繊細な歌いまわしが維持されているのだ。
本番のライブで、これくらい歌える歌手は、そうはいないし間違いなく日本のトップレベルであろう。
倉木麻衣はホーミーか
次に、倉木麻衣は歌詞で何を言っているのかわからないという批判もある。しかし、音楽というのは歌詞だけでもメロディーだけでもないものだ。
たとえば、洋楽を中高生の段階から聴き始めた者にとって、果たして最初から歌詞をヒアリングして歌詞の意味を汲み取って好きになった者がいるであろうか?
では、メロディーに魅かれて洋楽が好きになったと言えるであろうか。確かに洋楽にはいいメロディーは多いが、メロディーだけでは、そんなには魅せられないであろう。。
それは、歌詞とメロディーが一緒になって、感情や情景など伝えたいものが伝わるからであろう。例えばフルートという楽器のソロでも、悲しみも喜びも、渓流の爽やかさを伝えることができる。歌の場合は歌詞という表現方法がさらに加わる。
歌詞でもなく、メロディーでもなく音楽なのだ。
その点に関して、モンゴルの伝統音楽であるホーミーの達人が日本での演奏に関して、「どうして、日本語の解説や歌詞カードをつけないのか。」という質問をされたことがある。
そのホーミーの達人は「そのようなものがないと理解してもらえないなら私の音楽はまだまだだということだろう。」と答えた。
洋楽を聴く人は、最初は歌詞の意味がわからなかったとしても、その伝えたいものは感じていたはずである。あとで歌詞の意味がわかるとまた新たな感動があるのである。
もっとも、倉木麻衣の歌が聞き取りにくいということがあれば、それは英語部分であり、論者のヒアリング能力の問題であり、そういう意見は、曲のよさや歌唱とは関係ないのである。
しかし、それでも伝えたいものは伝わってくる。そこが倉木の魅力でもあるのだ。
倉木麻衣の歌の価値とは
一般論だが、歌で感動するとはどういうことだろうか。
歌詞の内容と自分の経験を重ね合わせ、共感できるからだという見解がある。確かに、自分の経験した悲しいこと感動したことがないと、歌を聴いても共感できないだろう。
他方、メロディーに感動するという見解もある。しかし、それだけで人が泣くということはありえるだろうか?
ここに、モンゴルにホーミーというものがある。メロディーという点では、少なくとも日本人では理解しにくいだろう。洋楽のように歌詞を入手ということも困難だ。
それでも、ホーミーを聴いて感動して泣いている場面を見ることがある。
歌詞でもメロディーでもなく、また、聴衆の経験と重ねるのでもなく、曲そのものから聴衆に心を伝えて感動させることができる。
私は、それまで歌で人が泣くことはありえないし、あるとすれば、その人の過去の経験と重なるからだと思っていた。
しかし、倉木麻衣との出会いによって、その間違いに気付く。
倉木麻衣は「曲そのもの」で人を感動させる力のある歌手であり 決して聴衆の経験と重なる共感というものは必要としていない。 私は倉木麻衣の価値は、 とても他の歌手では代替できない貴重なものと思っている。
倉木麻衣が上手いわけ。
私は、昨日、司法試験について後感を書いた。
私も最後に書いているが やっぱり試験は自分しだいなのだ。
倉木麻衣はライブごとに歌もライブパフォーマンスも上達している。 曲によってはCDなんか問題にならないくらい良くなっているものもある。
それは、倉木麻衣が頑張って練習しているからだが それは倉木麻衣が極度のあがり症だからだと思う。
倉木麻衣もステージに立つのは怖いと思う。 特に緊張しやすい人だとなおさらだ。 でもステージに立たなくてはならないし失敗はあまり許されない。
それでもライブ中心で活動する歌手としては どんなに緊張しても、あがっても、体調が悪くても 失敗しないくらいに練習するしかなかったのだと思う。
これは、倉木麻衣にかかわらずプロに共通することだろう。 一般のセールスマンでも、トップセールスと言われる人は 最初は人よりも話し下手だった人が多いと言う、 最初からトークが上手い人は、あまり努力しなくてもそこそこできてしまう。 しかし、話が下手で人と喋れない人は それを認識して人よりも意識して努力するからだという。
もちろん、最初からトークの上手い人が努力したら スタートラインが違うのでかなわないこともあるし、 トークが下手で、結局セールスマンになるの断念する人もいるので 結局自分しだいということなのだろう。
ただ、勝負から逃げないなら やはり、正面から向き合い戦うしかないのだ。
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