JR事故の報道に関して

(注)この記事より前の記事は「合理化というが」「企業への忠誠心」のページを見てください。

現場無視の体質

今日から少しJR西日本の話になる。
今までの企業の一般論は前ふりである。

もう少し前に書きたかったが
事故後1ヶ月でマスコミが特集してたので
私や、このBlogの読者が冷静に考えるのには
記事の時期をずらしたのだ。

まず、先日来社員に無理を強いる体質があることを書いた。
経営者は、人件費を抑えて利益を出そうとするが
実際は、営業に支障があるくらいに人員を削減する。

もちろん、現場は困るし社員はなんとかしようとする。
人員の適正配置をすると経営者としては思い通りの利益は出ない。
つまりは、ソロバンが合わないのだ。

このとき、現場でなんとかしろと言うのであるが、
これは経営者でもできないことはわかっている。

「何とかしろ。」というのは、
経営者の方で思考が尽きてしまっていることが多い。
どう考えても無理なので、もう思考をやめてしまっているのである。

結局、社員のサービス残業など加重労働でまかなうことになる。
現場の声は上がるかもしれないが、
そこには目をつぶってしまうことになるし
実際問題不可能を強いているのだから、そうならざるを得ない。

JRでは、運転士の人員が不足していて
仮眠時間も少なく、ベストコンディションで運転士が
運転しているわけではない。

それに、スピード競争から無理なダイヤを組んでいて
東海道線などでも、制限速度一杯で走ったとしても
ダイヤが守れない区間も多かったようだ。

このようなダイヤは机上の空論で
制限速度で地図上を走らせて考えたのであろう。

電車は速度ゼロから、いきなり時速120キロになるものでないし、
加速中は制限速度以下であるし、
カーブや見通しの悪い踏み切りの近所などは減速もするだろう。

回復運転というが、制限時速はオーバーすることを
黙認していたとも考えられる。
また、駅の乗り降りの時間も計算しにくいものであり
これも余裕がなかったそうだ。

結局、現場を敢えて無視して、
「現場でなんとかしろ。」ということらしく、
当然、経営陣はどう考えても考えが浮かばなかったのであろう。


JR西日本の体質

今回のJR西日本について企業体質がかなり問われた。
では、いったい何が問題なのであろうか。

第一には、先日も書いたように現場と経営が分離していて
経営が現場を無視して現場に無理を強いていたことがある。

ただ、この現場と経営の乖離という現象は
今まで、このBlogで書いてきたように
「経費はどれくらいでないと、やっていけない。」
という数字が先にあり、現場をそれに合わせようとするが、
実際は無理ということであり
合理化と称して人員、経費削減をしている企業一般に見られることで
JR西日本のみの特質とは言いがたい。

特に、JR各社とか銀行については
マスコミが世論と称して、そういうことを強要してきたと言える。
もちろん、マスコミの言うことなど無視すればいいのだが
ある程度の圧力にはなるだろう。

もっとも、マスコミの批判とは関係なく
企業存立の要件として、それは必要だったろう。

ただ、方法論としては、先に目標数字があって
現場をそれに合わせようとしたもので現場無視であったことで
うまくいくはずがなかったのである。

では、現場の言うことを聴きながら改革を進めるとどうなるか。
恐らくは、全く進まないことが多いだろう。
人員が減らされるというのは、やはり現場は嫌がるし、
今までの仕事のやり方を変えるというのは大変なことだ。

だから現場の意向とは別に経営陣が決定することは必要なことでもある。
ただし、それは現場をある程度知っていて
新しい仕事の仕組みについて指示を出せるものでなくてはならない。
現場も調査せず、何の方法論も提示できず
ただ「現場で何とかしろ。」というのでは思考の放棄であるし、
そういう経費削減策は、誰でもできるのだ。

人員整理や経費削減は、「先に結論あり」で
いくらでも机上の空論でやることはできる。

しかし、今回のJRの事故で見られるように、
車両整備、線路保守、安全対策など最低限のものを確保できていたか、
業務に支障をきたさなかったかは、
常に自己検証できていないといけないと思う。

第二に、経営陣と現場に信頼関係がなかったのではないかと思う。
前述した業務改善も現場と経営陣に信頼関係があるからできるのである。

現場が「これでは、やってゆけません。」と言っていても、
本当に努力してもそうであることもあれば、
単に改革が嫌であるとか、経営陣への嫌がらせという場合もある。
経営陣と現場に相互不信があれば
正確な状況は互いに伝わらず、改革は不可能である。

多くの企業では、バブル崩壊後にそうなったことが多いが
JRでは、国鉄時代からそのような問題も抱えていたと言えよう。


緩みだろうか

JRの事故について、いろいろ言われているようだが
私はテレビや新聞をあまり見られないので少し情報が遅れているが
議論の中で「緩み」ということが言われているようだがこれは疑問だと思う。

聴けば、JRの運転手は1秒刻みのスケジュールで仕事をしていて、
それから少し外れるだけで厳罰が待っていたという。
どちらかというと、緩みというよりはきつ過ぎるのではないだろうか。

また、事故のあった福知山線では快速の停車駅がひとつ増えたというのに
宝塚、尼崎の停車時刻は同じであったという。
数秒の遅れも許されないのに
停車駅が増えるということから
その分は無理してスピードを出さなければならない状況があったと思う。
それまでの停車時刻でもスピードが要求されるので
余裕があったものではなかつたろう。

ちゃんと計算された時刻表ではなく
もともと無理な決定をして、たとえ現場が無理だと言っても
「現場でなんとかしろ。」というものであったろう。
現場無視というか、無理を下に強いているのは現場が困るだけではなく
利用者も困る。

それと、事故列車に乗っていたJR職員が救助をせずに
そのまま出勤してしまったことについて非難されているが
運転手のスケジュールが精密にできていたなら
2人は運転手ということで救助に当たると代わりの運転手の手配が難しいということで
時間とダイヤを厳守させていたのであろう。

通常の人なら、現場にいると「これは大変だ、救助しなくては。」と思うだろうし、
当該の本人たちも、そう思ったかもしれない。
しかし、ダイヤを守るために通常の職務に出なくてはならないと考えたり
連絡を受けた上司もそういう判断をせざるを得ないとしたなら
やはり組織的に、それだけ現場の人間をマニュアルで縛っていたと言えるし、
そのようなスケジュールを組むことについて
現場に無理を強いていたのであろう。

今回、こういう事故になっても、まだ現場の個人の問題とする意見があるが、
個々の職員がそういう行動をとった背景としては
組織的な問題が大きいという点を見逃していると思う。

ふたたび、個人の問題として処理されるなら
それを生み出した組織的な問題は解決の機会を失うだろう。


ミスの管理

私は最近まで医療関係者だった。
従来より医療ミスが問題化され
厚生労働省から医療ミス防止に関して
全ての医療機関に冊子を配布したり指導を強化することがあって
医療界では、かなりミスの管理という意識は進んできた。

今回のJR福知山線の事故でのJR西日本の管理体制は
医療界の常識からして驚愕するほど原始的なものだった。
ミスをしたら厳罰というが、
人間の能力からいって、ミスはどんなに誠実で熟練の者が
どれほど注意深くしても起きるものだ。
それは厳罰でもってしても同じなのだ。

それとミスを起こす確率というものは個人差があるので
管理体制は、全員に妥当するようなものでなくてはならない。

まず、前提としてミスは絶対に起こるし
厳罰をもってしても防げないという前提がわかっていないと駄目だ。

薬剤師などは、1人が薬を出し別の1人が袋につめ
さらに別の1人が確認するということをすることがある。
その医療機関が用意できる人員にもよるが
このような体制というのは、絶対人は間違えるという前提で成り立っている。

医療ミスに関しては、できるだけ細かいデータを集める。
ミスをしそうになったものも報告させる。
もし、罰を与えたり管理者が怒ると正確なデータは上がってこない

問題なのは、ミスが起きたり起きそうになった場合
どうしてミスが起きたか分析し、
どうしたらミスを防げるかを研究する。

また、医療側が正確でも患者側での間違いも防止する必要があり
説明はもとより、食後の薬の薬袋と食間の薬の薬袋を色分けしたりと
ミスの事例を集めて、どうすれば間違いが少なくなるのか研究実践することが大切なのだ。

刑法では責任主義という概念がある。

たとえば、規則の意味を理解していない者に刑罰を課しても
意味がないというのである。
もちろんこれは人間を対象に考えているわけだけれど
わかりやすくするため例を極端にする。

例えばイノシシに交通信号を守れといい
守らなかったら罰を与えるという。

もちろん、動物に対しては叩くとかの制裁で効果があることがある。
しかし、そもそも行動の意味が理解できなかったら
守りたくても守れないことがあり
刑罰を与えても違反行為防止に意味がないこともある。

少なくとも上のイノシシの例では
交通信号を守らなかったイノシシに何回か制裁を与えると
そのイノシシは交通信号を守るかもしれないが
他の一般的なイノシシには効果がない。

人間に対して、注意せよ、緊張せよとは言うことができるし
散漫な仕事については異論なく責任を追及できるだろう。
しかし、どんなに誠実で注意深い人でもエラーは避けられないし
十分にベストを尽くしたのにエラーが起きることもあり
それに対して制裁をもってしても、罰則を強化しても意味はないであろう。

人はエラーを犯すという前提があり
それを前提として、どのようにすれば結果防止ができるかを考えなくてはならない。

意味を理解しない者の行為や、ベストを尽くしても防止できないものは
刑罰を強化しても意味がないし、責任を問えないと思う。

しかるに、厳罰でミスを防止できると考えるのは短絡的な思考であり
効果はないと言わざるをえない。

追記
なんと、神戸でも人に慣れたイノシシでは
交通信号を守るものもいるという。
JR六甲道で通勤客に混じって
大きなイノシシが信号待ちしている画像も見たことがある。


過失の共謀共同正犯

過失犯というものは、一般的に
「注意すべきであったのに注意しなかった。」という場合に認められる。

例えば自動車や電車の運転は人に危害が及ぶ可能性が大きい行為であり
その運行にあたる者は事故を起こさないように注意する義務がある。

そうした注意義務を負う者が注意を欠いたときに過失犯として責任を問われることになる。

このように考えると、当然に注意義務違反としての過失行為は
無意識のものとなる。
そうであるなら、不注意ということに共犯関係が見出せるのであろうか?
判例はこれを認めるけれど、私の場合は少し理論構成が違う。

というのは、過失犯イコール注意義務違反という構図が正しいのか
疑問があるからだ。

何故そう考えるかというと、近年の医療事故や
航空機運行などでの数々のヒューマンエラー防止の工夫は
「人はどんなに注意してもエラーを犯す。」ということがわかってきたからだ。

そうであるなら、注意してても事故は起きることになり
極端にいうと、注意義務を課して罰則を強化しても事故は防げないことになるし
不可能を強いる結果となり、
「処罰されるのは運が悪かったから」ということになりかねない。

そこで、私は過失犯の本質は、結果回避義務違反であると考える。
結果回避義務というのは予見できるのにしなかったという要素と
結果が予見できていたのに防止する義務を怠ったということにある。

例えば、信号の無い交差点では子供が飛び出してくる可能性は常にあり
通常の運転手は、そういうことは予見すべきである。
そして、衝突を回避するための措置として、
そういうことがあれば直ちに停止できる程度に速度を落とさなかったということが違法だと考えるのである。

結局、過失犯というのは結果回避のための作為義務違反であり、
このように考えると過失犯の行為という概念がより明確となる。

そうであるなら、ある者が過失を犯さないように他のものが監視するなど
相互に相手の行動を監視する場合などには過失の共犯ということは
概念できるのである。

ただ、会社などで上下の監督関係があると
それは監督責任であり、過失犯の共犯ではないと言われる。

しかし、過失犯の処罰根拠を結果回避の措置を取らなかったということと考えると
過失の共謀共同正犯はありえると考えられる。

たとえば、鉄道会社があって
過密ダイヤで運転手に高度の注意を要求し
それが人間の能力の限界に近い要求であり
どんなに運転手が注意しても事故が起きやすい状況を作出し
さらに結果回避の措置を取らなかった場合はどうだろうか。

過失事故が起きやすい状況を作出して
結果回避の措置を取らないか、
現場の実行行為者に結果回避の措置を取らせないように強制していた場合、
これは監督義務だろうか。

命令系統や現場のマニュアルが正しければ
過失行為がおきないように監督ということもありえるが
全体として事故が起きやすいように監督していた場合は違うと思う。

これは過失犯の共謀共同正犯か間接正犯のような気がする。


JR報道に関して

一連のJRの報道について思うのだけれど。
報道の方も脱線している部分があると思う。

もちろん、多くの死傷者が出たということで
被害者、関係者の人々への配慮や
その現状を伝えることは大切であるし、
JR西日本の問題点を指摘し批判することは
JR西日本の社会での役割の大きさを考えると公益に資すると思う。

しかし、あまりにも被害者のプライバシーを公開しすぎていないだろうか
初期の報道では、被害者の承諾のもと事故の悲惨さを伝えるに相当な程度だったが
だんだん特定の被害者に焦点を絞り、より詳細になってきていて
過剰に個人のプライバシーをさらしすぎているものも出ており、
公益目的の報道より視聴率という感じがするものも見られるようになった。

今回のJRでの問題点は多く、
利益優先で現場の社員へ無理を強いていたのではということ。
それと、日勤教育の実態など安全に対する方法論が幼稚かつ短絡的であるということ。

国土交通大臣が指示しなければ
「新型ATSはバックアップにすぎないので旧型でも運転再開」という
まったく問題点をわかっていないと思われる発言があったこと。
それと、直線部分から車両に異常があったような証言もあり
整備体制に問題はなかったかという点も指摘しうる。

JR職員がボーリング大会というのは、事故を思えば非難されるべきであるが、
この部分は感情論が多いと思う。

2人の運転手が乗り合わせながら出勤した件も
マニュアル化されて現場が判断してはいけないような
組織的問題はなかったかが議論されるべきなのに
「許せない」という感情論で終わっているような気がしている。

マスコミ自体が感情論ばかり大きくすると、真の問題点が隠れてしまうし
注意するべきであろう。


不適切な事象

一連のJR西日本の事故報道で、事故の当日、
「天王寺車掌区の職員がボーリング大会」という報道の後、
いろいろな同様な事例の報道があった。

当事者の職員は、社内連絡しか知りえない人もいて、
社内連絡では日常の事故程度にしか思えないものだった。

そのとき、テレビのコメンテーターは
「テレビをつけてみれば、どういう事故かわかるはずだ。」
と言っていた人もいる・・・・。

「テレビが見られる職場って、どんな職場やねん。」
と思ったのだが。
この人達には、先にJRの非道性という結論が先にあるので、
そうなるのかなと思った。

この報道は、遺族の感情を逆なでする以外の効果はなかったと思うし、
ワイドショー的になってきた報道姿勢は問題であろう。

もっとも、そういうことがあったという報道自体はありえると思うが、
その後の同様のネタについては、過剰すぎると思った。

JRの欠点を指摘するのは
今後の事故防止など、いち私企業ではあるが
JRの公共性を考えれば必要なことである。

ただ、こういう感情的なものは極めて個人的なものであり、
職務上緊急事態に備える位置にいる者を対象とするのでないかぎり
こんなに過剰にしない方がいい。
いたずらに悪感情を増幅させるだけである。

メインは、やはりJRのシステム上の問題点や
今後の事故防止に役に立つものでないといけないと思う。

感情的に視聴者の怒りを煽ることは
当面のこの報道への視聴率のためであろうけれど
それをやると、本当の原因究明や問題点が見えなくなってくると思う。

報道のワイドショー化は、感情論を持ち出すだけでなく、
被害者のプライバシーをさらしすぎたという点もあろうが
これは後日の話題とする。

さて、これらの報道では
「自分の会社のしたことなのに、社員が遊んでいるなんておかしい会社だ。」
というのである。

確かに、JRのような公共的な会社では
大きな事故などに対して、休日でも呼び出されたり
ある程度、緊急事態に対処するようになっているだろう。
特に、事故発生地点の近隣の部署では協力体制は必要なこともある。

これは、市町村などが台風や地震などのときに
休日や夜間であっても、緊急に職員が召集されるのと同じであろう。

ただ、JRには市町村のように、そんなマニュアルや
危機管理体制があったのか。
あるとしたら、それはどんなもので、
今回どのように不備があったのか。

それは、一連の報道でも明らかでない。
単なる感情論だけで終わらせられてしまったのである。

それと、前回の記事の続きなのであるが、
JRの職員が、会社としての一体感を持っていないというのであるが、
これは深刻である。

先日書いたように、現場と経営陣が相互不信だと
現場で不具合があって、それを報告しても
経営陣の方では、その情報は信用されていない。

それで経営陣の方策は机上の空論になってしまい
現場はますます経営陣を信用しなくなる。

こういう悪循環に陥っていては
マニュアルは空文化してしまう。
現実的な事故防止は無理であろう。

倫理的、感情的に許せないという人もいるが、
サラリーマンのフリーエージェント化が進むと
タイムカード押したら、会社とは無関係という
個人と会社の結びつきは契約のみという価値観も否定はできない。

むしろ会社での一体感というものを言うのは
会社への私滅奉仕の精神を未だに支持するもので
こればかりを賞賛するマスコミの論調は一方的すぎるであろう。

もっとも、現実には「会社と個人の結びつきは契約のみ」
と考えている人の方が自社のために必死になっていることが多い、
自分の活動の場を守るためであり、プロ意識からでもあろう。

ただ、今回のJRでは、いずれのタイプの社員も
あまり会社としての一体感を持てなかったようで
最初に手がけることは、システム作りではなく
経営陣と現場との信頼関係を築くことから始めなくてはならないだろう。



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